前回のお話

そして西へ戻る途中、碓氷峠に登り東南の方を望んで、なくなった弟橘姫を偲び

吾妻(あずま)はや
と、言われました。
そして、尾張の国との国境に差し掛かった時、早馬で知らせを受けます。
副将軍で、尾張出身の建稲種命が駿河の海で命を落とされた、とのこと。
それを聞いた倭健命は

ああ現哉々々(うつつかなうつつかな)
と、嘆き悲しんだそうです。

これが現実なのか、信じたくない。膝から崩れ落ち、天を仰いだ。
その場所が今の内津峠です。愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ峠です。
伊吹山

倭健命は尾張に帰り、結婚の約束をしていた宮簀媛(みやずひめ)と再会します。
二人はめでたく結ばれますが、しばらくすると倭健命は伊吹山に荒ぶる神のあることをお聞きになり、平定することを決め、歩いてでかけました。
この時、草薙の剣を宮簀媛の手元に置いていかれてしまいます。
伊吹山を見上げると、霧が流れ、いかにも不気味な様子が漂っていました。
しかし倭健命は、

この山の神などは素手で討ち取ってやろう
と言い放ってしまいます。しばらく登ると牛ほどもある真っ白い猪に出会いました。
尋常の獣でないことはわかったのですが、

この白い猪はきっと神の使いなんだろう。今、相手にする必要はない。
そう言い捨て、更に上に登って行かれました。ところがそれは、本当の山の神だったのです。

なめんな
軽く見られたことに起こった山の神は、雲を起こして大粒の雹を降らせました。
峰には霧がかかり、谷は暗く、どこへ向かうべきかわからなくなりました。

それでも、強引に進んでいくと、どうにか抜けることができました。
倭健命は、正気を失い、意識が朦朧としてきました。
それで、山の下の泉のそばで休み、そこの水を飲むと気分が良くなりました。

その泉の場所が美しい清流で有名な滋賀県の醒ヶ井宿です

英雄の最後
倭健命はこれまでの長い遠征の疲れがどっと出たのでしょう。杖を突きやっと歩くほど疲労困憊していました。
そのようにして尾津前の一本松までたどり着くと、置き忘れた佩刀がそのまま置いてあるのに気が付き歌を歌います。
”尾張に直に向かえる
尾津の前なる 一つ松
吾兄を 一つ松
人にありせば
大刀佩けましを
衣着せましを 一つ松
吾兄を”

そこから少し進み、休んだときに
「私の足は三重に曲がったまがり餅のようで、とても疲れた。」
こうつぶやかれたことから、この地を三重と呼ぶようになったのです。
伊勢の国の能褒野に着くと病状が急変します。
それから家来を遣わして、景行天皇に奏上しました。

私は勅命を受けて、遠く東の蝦夷を平定しました。早く帝に復命のご挨拶をしようと思っておりましたのに、天命が尽きてしまい、余命幾ばくもありません。
もう帝にお会いできないのが、心残りでなりません。
こうして倭健命は、能褒野の地でなくなりました。
この時、御年30歳でした。
この世を去る間際、倭健命はこんな歌を歌いました。

大和は国のまほろば
たたなずく
青垣 山隠れる
大和し麗し
この訃報を受けた后や御子たちは、ただちに倭健命を能褒野の陵に埋葬し、その周囲の田んぼを這い回って泣いて歌いました。

”なづきの田の
稲がらに
稲がらに
はひもとほろふ
ところずら”
すると陵から倭健命の霊魂が大きな白鳥となって天高く飛び立ち、浜辺の方に向かって飛んでいくではありませんか。
それを見たお后や、御子たちはその白鳥を追いかけ、足を怪我しながら、痛さをも忘れて見が夢中で走った様子を歌にして
”浅小竹原
腰沈む
空はゆかず
足よゆくな
さらに白鳥は飛翔し、お后や御子たちは海辺の水に入り、今度は水に足をとられるもどかしさを歌にして

”海がゆけば
腰沈む
大河原の 植草
海がはいさよふ”
また、白鳥が磯の岩にとまり
”浜つ千鳥
浜よいかず
磯づたふ”

この四首の歌はみな、倭建命のお葬式のときに詠った詩です。
そしてこれらの歌は現在に至るまで天皇のご葬儀の際に詠うのです。
さて、白鳥は伊勢の国から更に天翔り、ようやく河内の国の志幾にとどまりました。
そこで御陵を造り倭建命の御霊を鎮め祀りました。
その御陵を名付けて白鳥の御陵と言います。
そして白鳥は更に高く飛翔し、天に登りました
草薙の剣は宮津姫によって尾張の国の熱田神宮に奉納され、今に至るまで天皇家の三種の神器の一つとして、熱田の森に鎮座しています。
また関ケ原から望む伊吹山の頂上には倭建命を偲んで、関ケ原の彫り師によって彫られた石像と弥勒様の石像が祀られています
